そういえば、長田弘の『深呼吸の必要』という詩集に収められていた散文詩を読んでいこうとしていたんだ…
と、思い出した。
うーん…コロナ自粛前、ね。
今朝はその中の詩「海辺」から。
「海辺」 長田弘
波がくずれて、小さな塩の泡を撒きちら
しながら、波打ち際をすすんでくる。ふいに
あきらめて、またもどってゆく。濡れた砂が
いっぱいにひろがって、午後の日の光りに淡
く光る。鈍いろの波が盛り上がって、またく
ずれて、すすんでくる。寄せてかえすだけの
清浄なざわめきのなかに踏み込むと、ふっと
すべての音が掻き消えてしまう。黙る。二、
三歩あるく。立ちどまる。
海辺にのこされたままの欠けた貝殻。足許
にからみつく海草。木目を浮かびあがらせた
うつくしい木片。宝石のようなガラス壜のか
けら。すべすべのひらたい石。瞳をひらいた
ままの人形の首。真ツ白な骨片。木の枝。目
をあげると、霞む沖はるか、空が、海の藍い
ろの布っ端をひっぱりあげている。そうやっ
て風が寒くなってくるまで、じっとしている。
理由はない。きみはただ海をみにきたのだ。
奈良は海のない県だから。
時折、思い出したように、広島の穏やかな海をみたい、と思う。
広島で最初に住んだのは、高台に建つ14階建てマンションの7階で。
リビングからは瀬戸内海が見渡せた。
小さな無人島まで見えた。
広島の穏やかな海。
うん。確かに絶景だった。
それなのに、もう半年後には、奈良に帰りたくなっていた。
広島に行って、半年後、の秋には。
マンションにはユーセンが入っていて。
「田園、牛、虫」というBGMが、唯一、ザワつく心を鎮めてくれる「音」だった。
どんな音楽も、ダメだった。
淋しがってばかりいた、10代、20代、30代の私。
そうね。淋しがらなくなったのは、子どもを産んでから。
子どもの世話に明け暮れる乳児期。
そのうち、仕事に復帰したら、家事との両立に精一杯で。
自分にばかりかまけていられなくなった。
歩ける海岸は、広島には、あまりなかったかもしれない。
…潮干狩りをしたのは、どの海岸だったろう?
職場の同僚の関係で、地御前辺りで、プライベート・ビーチでの潮干狩り、とか。
海岸線を歩くイメージは、周防大島の海。
…ちょっと、南国風、だった。
そうね。ただただ、海をみたい、と思う。
周防大島までの道路は、国道2号線で、海岸線だった。
これも気持ちよかった。
…風に吹かれる感じが。
…そうね。広島から岩国に向かう、あの海岸線も好きだった。
道路横の海に陽が反射してキラキラして、綺麗で。
行く途中、を楽しむって大事かもしれない。
ただ、目的を達したらいい、というのではなく。
そうね。忘れないでいよう。
何の目的もないまま、でいることの豊さを。
画像は、2014年5月3日に広島の友人と訪れた周防大島。
生まれてまだ4ヶ月の子犬のアンジーも連れて行きました。