朝、いつもより少し遅く目覚めて『深呼吸の必要』を開く。
パラパラとページをめくって。
「影法師」と題された詩に目を止める。
夕方の、子どもたちのキャアキャアいう声が聞こえる。
少し長くなった影を追い掛ける姿、をその中に見る。
…誰の記憶? 子どもの頃の自分の遠い記憶?
いや、それは定かでなく。
…単に、脳が見せるイメージ、であるだけかもしれない。
「影法師」 長田弘
影を踏む遊びがあった。たそがれから夜に
かけての子どもの遊びだった。二人ないし三
人で、あらそって、たがいの影を踏む。頭の
影を踏まれたら、負けだ。日の落ちぎわは、
影が長い。長い影は、塀に折れてうつるよう
にしなければ、だめだ。街灯がついたら、誰
も負けない。いざとなったら、街灯の真下に
逃げる。影が足もとに跳んできて、さっと消
える。
たがいに追いかけながら、逃げながら、自
分の影を確かめながら、影法師を長く短くし
ながら、騒ぎながら、「さよなら、またね」
と叫んで、家に駆けこむまでの、たのしい路
地の遊びだった。いまはみなくなった子ども
の遊びだ。きみはおもいだしてふと、ドキリ
とすることがある。ひょっとしたら子どもた
ちは、今日どこかに自分の影法師を失くして
しまったのだろうか、と。
そういえば、今頃は夕方に影法師を踏む子どもの姿など見ないなあ、と思う。
…いつから、子どもがじゃれ合う姿を見なくなった?
特に、夕方に、など。
子どもの外遊び、もあんまり見ないかもしれない。
頭の影を踏まれたら負け、なんて。
それはその地方の「決まりごと」かもしれない。
子どもはじゃれ合わなくて、どんな風に育つんだろう?
キャアキャアいう声が、空高く、吸い込まれていくように流れていって、
それが、永遠につながる一瞬、を感じる時間であったりするのに。
影を踏まれないように、身体をくねらせて逃げて。
その時、自分の身体がこんな風に曲がるんだ!を発見したりするのに。
子どもたち。子どもたち。
自分に影法師があること、さえ、今の子どもたちは気づいていない、のかもしれない、と思ったりする。
ひとりで淋しい時には、自分にくっついてくる影法師と戯れる、ことも知らないのかもしれない。
広場。空き地。
整備されていない、ただの空間は、「何もない」のではなく、たくさんの遊びを触発してくれる場所だった。
そして、影法師は、ひとり遊びのときの大切なパートナーだった。
…そんな記憶が蘇る、朝。
画像は、11月4日に訪れた法隆寺で見かけた寒桜。思い掛けない「出会い」でした。