2020年12月12日の「折々のことば」。山本貴光の言葉。
歩くのは、心に風を通してちょっとだけ変身することなのだ。
鷲田清一の解説。
「ものを考えたいときには歩くに限る」と、文筆家・ゲーム作家は言う。
まず目下取り組んでいる課題を「頭の片隅に取り込」んでから、ふらりと外に出て、景色に誘われるままに歩き回る。
すると刻々と変わる知覚が先の課題とスパークして、思いがけない発想が降りてくる、と。
人は指先でも足裏でも首筋でも考える。
それらにも風を十分当てねば。
随想集『投壜(とうびん)通信』から。
そうか。歩くことは「心に風を通す」ことなのか。
それは「ちょっとだけ変身」を生み出す、という。
うまいこと言うなあ、というのが最初の感想。
「刻々と変わる知覚が先の課題とスパークして、思いがけない発想が降りてくる」か!
なるほどなあ…と思う。
うずくまって地面を見ていても、何も変わらないよ、と私も思い。
だから、「沙羅Saraのほっと一息 詩の時間」第7話、阪田寛夫の詩「練習問題」を取り上げたときには、
うずくまるのに飽きたら、顔を上げて空を見ようよ、と語りかけてしまった。
台本を作っているわけではないので、そのとき思いついたことを語っているわけだけど。
…雲が形を変えて流れていくのが見えるから、と。
全てのものは変化する。
だから、事態はずっと同じ形でそこにあるのではない、と。
うん。そうね。
苦しいさなかには、これが永遠に続くかのように錯覚するけれど。
それは違う。永遠に続くものはない。
人は「指先で」考える、というのはわかる。
おもむろに、キーボードを打ち始めたら、次の言葉が出て来る、という経験を何度もしているから。
「足裏で」考える、というのは、今回の「歩く」ことでアイデアが「降ってくる」ことね。
だけど、「首筋で」考えるというのが、私にはよくわからない。
うーん…首筋で、どうやって考えるのだろう?
のぼせたりしたときには、そこを冷やしたり、するけど、ね。
あ、「頭に血が昇る」状態になったときには。
「落ち着け!」と、冷たいタオルなどを当て、身体を冷やすことで頭を冷やす、んだろうか?
そうかもしれない、ね。
そういうのを「首筋で」考えるっていうんだろうか?
風を通すこと。
風通しがいい状態、って大抵、居心地がいい。
空気の動きは、心の澱(よど)みを動かす。
心はナマモノなので。腐らないように。カビが生えないように。
丁寧に扱うこと。
それが大事。
画像は、子どもへのクリスマスプレゼント用に作ったスワッグ。
花屋さんに行って「スワッグを作りたいので、ドライフラワーになる花を教えてください。」と言ったら、
「ドライフラワーになる花」の種類が増えた。なんでも相談してみるものだなあと思う。