〈1〉
呼吸に戻れたんですか? ああ、なるほどね。
僕だったら、一応、それは、そのこめかみの痛みはここでは扱えないと思う、というようなことははっきり言うと思います。
でないと、ちょっと中途半端のまま、これを扱うのか扱わないのか分からないまま進むことになってしまうので、扱わないんだということを言うと思います。
サロンパスを貼ってくださいって。サロンパスの方が効きますよ、って。
たとえば、筋肉痛とか、関節の炎症とかだったら、消炎剤のサロンパスかなんかの方が効きますよってそういうような形で言いますね。
やっぱり我々が扱うのはそういう身体症状じゃない、ということですよね。
心に感じることであったり、心なんだけど、身体に感じている、身をもって感じている、というのかな。
だから、気分がどんよりしているとか、モヤモヤしているとか、気が重いとか、そういった感覚。それなら扱えますけど。
明らかに身体の現象だったら、それは身体のお医者さん行った方がいいと思います。
〈2〉
フォーカシングの観点からいくと、あまり身体症状には注意を向けないですね。
つまり、痛みとかに注意を向けていくと、余計に痛くなる。
めまいの感覚とか。クラクラしますとか、そういうところに注意を向けていたら、余計目が舞う。
だから、そういう身体感覚は、フォーカシングは割と避けていきます。
マインドフルネスは、仏教瞑想そのものは、それを避けないですよね。
でもそれの治療をするためではない、ということははっきり言いますよね。
ディパッサーナ瞑想を世界に広めた、ゴエンカという人がいるんですけど、聞いたことがありますか?
いろんなところにディパッサーナ瞑想道場を作りました。
日本にもあります。京都かどこかにありますね。
ゴエンカが、仏教瞑想をやろうとした理由は、すごくビジネスで成功した人で、お金がたくさんあって、なんだけど、頭痛持ちだった。
なんとかしてその瞑想で頭痛が治らないかと思って、ビルマの方に行って瞑想して。
そうしたら、そこの管長さんみたいな人が「頭痛を治しに来るんだったら、受け付けない」とはっきり言われて。
その目的のために瞑想するのはダメだって。
だから、つまりこれは「治療」じゃない、ってことで。
他のことで瞑想するんだったらいいけど、頭痛を治すために来るのはやめとけ、と言われたらしい。
それで断られたけれど、そのうち、頭痛を治しに行くんだということは言わずに行って、そして瞑想するうちに頭痛も治った、という話があるんですよね。
やっぱり何らかの「ご利益」を期待すると良くない、ということもあります。
ただし、マインドフルネス瞑想で、そういうのを扱うのは、たとえばジョン・カバット・ジンとかは、割と身体症状を扱ってましたよね。
もともと、あの人、生物学だったかな? 身体疾患を扱ってました。
そして、あれは最低40分ぐらい瞑想しますよね、そして8週間やりますよね。
だからすごい長い経過の中で、身体と向き合っていくわけなんですよ。
だから、そこまでの覚悟があるんならいいけれど、我々みたいなところでは、月に1回か2回やってるというようなところでは、ちょっと扱わない方がいいかなと思います。
※サティア・ナラヤン・ゴエンカ…(英: Satya Narayan Goenka、1924年1月30日 - 2013年9月29日)は、ミャンマー出身のヴィパッサナー瞑想の在家指導者。レディ・サヤド系の瞑想法の伝統を、その孫弟子にあたるサヤジ・ウ・バ・キンから受け継ぎ、欧米・世界に普及させた。(Wikipedia)
※ヴィパッサナー瞑想…(ヴィパッサナーめいそう、巴: vipassanā-bhāvanā)は、ナーマ(こころのはたらき、漢訳: 名〔みょう〕)とルーパ(物質、漢訳: 色〔しき〕)を観察することによって、仏教において真理とされる無常・苦・無我を洞察する瞑想(バーヴァナー)である。アメリカでは仏教色を排した実践もあり、インサイトメディテーションとも呼ばれる。(Wikipedia)
※ヴィパッサナー(巴: vipassanā, ウィパッサナーとも)は「観察する」を意味する。また、ヴィパッサナー(巴: vi-passanā)とは「分けて観る」、「物事をあるがままに見る」という意味である。(Wikipedia)
※ジョン・カバット・ジン…(英字:Jon Kabat-Zinn、1944年6月5日-)は、マサチューセッツ大学医学大学院(英語版)教授・同大マインドフルネスセンターの創設所長。国際観音禅院(英語版)の崇山行願(英語版)に禅を師事し、ケンブリッジ禅センター(英語版)の創設メンバーとなった。仏教の指導者に修行法と教理を学んだ彼は、それを西洋科学と統合させた。彼は、人々がストレス、悩み事、痛み、病気に対応する手助けとして、マインドフルネス瞑想を教えた。(Wikipedia)
〈3〉
最初にこちら側の追体験のために、何か質問されたんですね?
そしたら、それに応えてくれたけれど、そこから思考が始まっちゃった、みたいな?
どうしようかなあ…説明はいいです、あまりそう言っても都合悪いかなあ。
「説明されなくていいですよ」みたいなことは言ってもいいのかもしれませんね。
説明するのが好きな人だったら、気をつけて、あまり聞かない方がいいのかもしれない。説明が始まるから。
雑念が浮かぶと、そこから考えてしまうクセ?
考えてしまうのはいいんだけど、フェルトセンスに留まることができるか、ですよね。
何かそのことを思った時に感じているフェルトセンスに留まることができるかどうか。
たとえば、仕事のことを思うと鬱陶しいなあっていう人は、鬱陶しいなあというフェルトセンスがありますよね。
で、仕事のことを考えると鬱陶しいんです、と言っている時に、聞き手が仕事のことを質問した、としますよね。
そしたら、そこから仕事の話に行っちゃう。
うちの職場は10人いて、こうこうしていて、そのうち二人は最近来たばっかりで…と話が行ってしまって、そしてさっきの鬱陶しいのはどこかへ行ってしまっている。
こうなると、フォーカシングにならなくなってくる。
だからその時は、「あ、説明はいいので。鬱陶しい感じ、まだありますか?」と言って、フェルトセンスに戻す、という必要がある。
そして前回の「スペース・プレゼンシング」だったら、「そんな鬱陶しい感じはどこに行ったらいいでしょう?」とか、「どこに行きたがっていますか?」とか、そんな形で進めていく、ということになりますよね。
〈4〉
結局、違うのは「主体」なんです。
つまり、「クリアリング・ア・スペース」は、どっかに置くんですよね。誰が置いているの? ってことで、主体っていうのは。
だから、「クリアリング・ア・スペース」をしてるのは誰? ということで。
そこで私が「クリアリング・ア・スペース」してる、というふうになると、まあそれは普通の「クリアリング・ア・スペース」なんですよ。
で、それは西洋的なんです。私が「クリアリング・ア・スペース」してる。
だから、私の自我の強さを求められるわけ。それが「クリアリング・ア・スペース」ですね。
「スペース・プレゼンシング」は、それがどっかに行くんです。
だから、私は見てるだけなんです。
だから、それをやっている、「スペースが現れる」っていうのが、「スペース・プレゼンシング」で。
私が現れさすわけではない、というところがミソなんですよ。
だから「エイジアン・フォーカシング・メソッズ」をやるときは、「我(が)」でやらない、というところ。
自我でやらない。だから、どっかに置いてやろうとか、そう思うところに自我は強くなっちゃうからね。
どっかに置いてやろうとか、それから、これの意味を発見してやろうとか、そう思えば思うほど我が強くなる。
それは、瞑想している人も同じような壁にぶつかるんですよね。
どうしたら悟りを開けるだろうか。そしてすごく我が強くなっていくんですよね。
それから、瞑想するのは気持ちいいから瞑想するというよりも、悟るためにやっている、みたいな、ね。
そうなると、苦行になっていく。というのと同じようなことが、まるでフォーカシングで起こっているな、と思うんですね。
だから、ああこんなものがやって来たな、こんな雑念がやって来たな、なんか面白いな、これどこに行くんだろう? みたいな感じで見ている。
これが「スペース・プレゼンシング」の関わり方ですよね。
「クリアリング・ア・スペース」で出て来たこれをちょっと感じて、それをどっかに置いて、やろうとする、こういう関わり方になりますよね。
だから、ちょっと能動的になる、ちょっと西洋的でもあるかもしれない。そんな感じですね。
それから今さっきお聞きしていて、もう一つ思ったのは、2つ目のやつは「置いときたくなかった」んですよね?
1つ目のやつはどっかに置いて、二つ目のやつはどっかに置いておこうと思わなかった、とおっしゃったけど。
「行きたがってない」? 「行かせたくない」ね。「留めておきたい」。
だから、そこらあたりが、今日のテーマの「観我」と結びついて来ますね。
つまり、「行かせたくない」「留めておきたい」そう思っている私はどんな私だろう?
その我(が)を観察しようっていうのが、今日のテーマの「観我」ってことになってきます。
だからもし、先週、「観我」も勉強していたら、そこで「観我」に移った、スイッチしてもよかった、と思いました。
〈5〉
前回欠席してしまったのに。私も質問したくなってしまった。
「クリアリング・ア・スペース」の場合は、「私がそこに置く」という、我が存在している。「エイジアン」の方は、それがどこかに行く、行きたいなら行くままにしておく、ということだと理解しました。
そうすると、その二つが、どういう時に発生するのかということを考えたときに、「エイジアン」の方は、手を尽くしたけど、もう手の尽くしようがなくて、自分でお手上げ状態、何か自分の意志でしようとしてもどうにもならんわ、みたいな時に、どうぞ、みたいな。
まだその「クリアリング・ア・スペース」の時には、自分の働きかけで物事が解決する気がしている時に生じる、というか…その状況、どちらがというのは、良いも悪いもない、というか…
その、ご質問のポイントとしては、「どっちを選択するか」ということだろうと思うんですよ。
「普通のフォーカシング」を選択するか、「エイジアン」を選択するか。
それで、なかなかミックスしづらいと思うのね。
だから、たとえば、自分の自我の力に及ばないものがエイジアンで、とか、自分の自我の力でできる問題は西洋のフォーカシングで、みたいな。
そう簡単に割り切れるものではないと思うんですよ、実際やっていると。
だから、どっちでやるかを決めるということ、最初から決めておく方が楽やと思います。
あ、最初から決めておく。
決めておく。セッション途中では決めにくいと思うんですよ。
そして、僕の場合もはっきりしてるけど、フォーカシングやるって言っている時には、西洋的なやり方でやります。
エイジアンやるときは、エイジアンやりますって言ってます。
そして、エイジアンの中で何を使うか、は、それはその場その場で出てきたもの次第です。
でも、一旦エイジアンで行くと、もうずっとエイジアンで行くようなふうですね、多分。僕は。
なんかこう、「クリアリング・ア・スペース」とエイジアンは位相が違う、というか…
ちょっとスタイルが違う気がしますね。
絶対交じらないし、クロスしないし…
微妙に交じっとると言えば、交じっとるでしょうけれどね。
でも自分のありようというか、持って行きようが、全然違う気がして、
そう。それは確かに、あります。確かにね。
だから、最初からちゃんと決めてた方がいいように思います。エイジアンやるときは。
お抹茶と和菓子を食べるのか、紅茶とシュークリーム食べに行くのか、それ、決めといた方が途中で変わると違和感あると思います。
西洋のフォーカシングで行くか、エイジアンで行くか。
それを問うた時に、自分の身体は、自我を働かせる方向で整理したいのか、自我を働かせない方向で整理したいのか、言ってくるのかもしれない。
選択肢を用意された時には。
そういうことを考えると。「問い」というものがいかに大事であるかがわかる。
選択肢がある、ことで、自分の今の状態もある程度測れる。
「位相が違う気がする」と言った時に、池見先生は「ちょっとスタイルが違う気がしますね」とおっしゃったけど。
「位相」と「スタイル」はまたちょっと違う気がする。
…まだ、まとまらない、けれど。
ここまでで、2時間のセミナーのうちの30分、ほどだと思う。
でも、5000字を超えたので、今日はここまで。
画像は、リビングのあかり窓にさす朝日を、寝室の内窓を開けて眺めたもの。
大工さん曰くの「ハイジの窓」は、こんなふうにもなるんだ、と引越し後、半年にして発見した朝。