デモセッション後の質疑応答。
〈1〉
僕も気がついてないけど、そうだったかもしれませんね。
つまり子どもの「我」もあるし、その子どもの「我」を助けようとしている「我」がいる、その両方を見ている、みたいな。
そういう構造は二つ目の方もありましたよね。母親の「我」もある、それからそれを見ている「我」もある、そしてその両方を見ている、というのがありましたよね。
だから、たくさんの「我」が出てくるような気がしました。
やっぱり、「観我」ですよね。観察する「我」。
観察する「我」って、大事ですよね。それって昔の精神分析になかったですか? 「観察する自我」ですけれど。
バリントがどうのこうの、とか。昔からあったような。
自分を見ている自分、っていうのが大事かなっていうふうに思います。
そこにひとつ、やっぱりポイントがあるかなあ、と思いますね。
〈2〉
それもやっぱり自分の体験ですよね。だから、それは夢のようなもの、ですよね。
夢の中にお母さんが出てきたのと同じように、イメージの中にお母さんが出てきた。
そしてそれについて、省みている、という範囲で、それは追体験ですよね。
あ、これは母親だなあとか、母親困った顔してるよなあ、とか。
そういうふうに気づいてる時っていうのは、ただ母親の顔を見てるだけじゃなくて、あ、困った顔なんだ、みたいに見ている。
ので、そこにはある種の追体験が作用していますよね。
だから、それこそ、体験と追体験がブレンドしているかのようになると。
ドラッドシュロガーという、ケルン大学の哲学の先生ですけど、ジェンドリンの哲学を訳したり、多分ジェンドリンの哲学に関してはエキスパートと思うけど、彼女がいっぺん、立ち話で、僕に言ってたのは、ジェンドリンにとって、あらゆる体験は追体験でしょう、みたいな。
ああ、そうだよね、と思ったことがあって。
だから、母親が出てきたという体験だけど、同時に母親が出てきた体験を自分が観ている、というような。
そういう意味では、何か常に鏡に反射しているような感じで。
全部自分が作っている。
そして、全部自分が作ったものをまた自分が観ている。
実際の母親じゃないわけで。
英語で、だから、そういうのをリクレクティビティーって言って、reflex、反射性という意味なんだけど、全てが二重の鏡があって、エンドレスに映っている、みたいに。
だから、私の中に母親がいて、でも、その母親を観ている私がいて、みたいな、ね。
日本語では再帰性と言いますけど、再び帰る、再帰っていうんですけど、英語はリフレクティビティー、なんです。
僕はあんまりよくわからないけれど、イギリスのインスタングリアという所のインスタンングリア大学で、その再帰性と華厳経の関係を論じた博士号論文が出てきて、博士論文審査官なので審査しろと言ってきて、だいぶ苦労して読んだのを覚えています。
それもよく似ているみたいですね、華厳経の中の、全てが網に反射している、みたいな、ね。
それでも、なんかそれがすごい、ある種の他者性も持っているんですよね。
だから、それはたとえば、このデモセッションの最初の、女の子が出てきて、というある種の予期しない、そういう姿で出てくる。
だからまるで他者のような、自分のイメージであるにも関わらず、自分のコントロールが及ばない範囲、自分のコントロールできない範囲、なんですよね。だから面白い。
だから、夢の中の存在のような。
で、何かを言ってくるんですよ。面白いよね。
〈3〉
僕は大事だと思います。それを本当の他者だと扱ってしまわないように。
だから母親が本当に見捨てた、みたいに言ってる、思ってるかどうかはわからないわけですよね。本当の母親は。
でもそうじゃないかと心配している自分がいるというのは確かですよね。
だから、それは自分なんだっていうことを思っておく必要があると思います。
それからその子も、出てきた子どもがいじめられているっていうのは、それは過去にいじめられた体験ではないと思うんですね。
今の状況を表しているんだと思うんですよ。
だから結局、子どもの姿で出てきてるけど、結局は今の自分なのね。
だから今は誰に責められているんだろう?と。
という、今がとても大事ですよね。
どうかすると、この子どもの時のものが、子ども時代のトラウマか何かを表してるというふうに思って見ちゃうと、その子は何歳ですか? 何年生ですか? 何年生のときにあなたに何がありましたか? みたいな。
そっちに行っちゃう場合もあるかと思うんですが、ゲシュタルトなんかそっちに行っちゃうかもしれないけど、ただ僕はそうじゃないと思うんですね。
結局、今を表すためにその子が出てきてるから、だから実際のそのとき、何歳だったかとかいうのはあんまり関係がないと思うんですよね。
今感じてることが、小学生のような感覚でいる。
やっぱりこう、凄いなあと思ったのは、扉を開けて手をつないで外に行く、このイメージね。
なんか、そこになんて言うのかなあ、ちょっと精神分析で言ってた言葉って「補助自我」みたいなものがあったけど。
だから何か困っている自我と、それから大人の自分が、手を結んで外に行く。
僕はすごくそこはイメージがはっきりあって、そこから海に行ったんですよね。
なんか凄い元気でしたね。砂浜を走って、波打ち際の方に走っていったっていう、なんか凄いエネルギーが出てきたなあ、と思ってました。
なんか光の方に出ていった、って感じがしてね。最初、出ていったとき。
あの、ちょっと、その時の僕のイメージを話してみると、神戸女学院大学の卒業式。教員はステージの上にいて。学生は証書をもらいに上がってくる。
最後に牧師が祈祷する。オルガンがチャペルの中、鳴り響いて、そしたら、扉がパンと開くんですね。
そしたら、眩しい光が外から入ってきて。その光に向かって卒業生たちが二人ずつ出ていく。
そのシーンがパッと浮かんで。眩しい光がパッと入ってきて。
子どもの手を取った大人の女性のシルエットが光に向かって出ていく、みたいな凄いエネルギーを、あのとき貰いました。
〈4〉
インプライングっていう概念です。これは含意する、とか。でもインプライング、ingが付いてる時は、指し示す、の方が訳語としてはいいかも。
どういうことを言いたいかというと、このマイクのような意識が持てないもの、これが壊れた時は、故障の原因は? と過去を見ていかないといけない。
過去に落とした、とか、変な力が働いたかとか。あるいは製造工程で何か間違ってないか。
これは意識を持たない物体はそうですけど、メカはそうですけど、人間の場合は意識があるので、意識とはいつも前に行くんですよ。
いつも何かを含意している、っていうか、だからいつも言うんですが、たとえばお腹が空いた、お腹が空いている、という体験は、実はその食べたいものが何かあるんです。
食べたいものが含意されて、ああ、今ギョーザ食べたいな、とか思ったら、空腹はギョーザを差し示している。
今空腹はギョーザとビールを指し示している、というような形で、指し示してますよね。
だから空腹の人がきたときには「何食べたい?」と聞きますよね。「空腹の原因は?」とは聞かない。それはあまり意味がないよね。
でもね、僕たちはそういうことをやっちゃうんですよ。
不安の原因は? みたいなことを聞いちゃうけど、本当は、これあまり意味がない。
それよりもどうなったらいいんですか? ということの方が重要ですよね。
空腹の原因は? は意味がない。 何が食べたいの? の方が大事。
だから不安であれば、不安の原因は? じゃなくて、どうなったら安心できるの? という方が、まともな問いですよね。
意識を持っている存在にとっては。
だから、今状況はどうなったらいいんだろう、とそっちですよね。
どこかで知っているんですよね。どこかで知っているからこそ、今の現状はよくないと思っている。そこがわかっておられるわけね。
今の現状はよくない、だからこれで悩んでいるわけ。
だからどうであったら、よりいいんだろう? とどこかで知っている。
それは空腹のフェルトセンスはどこかでどんなものを食べたいか知っているのと同じ、ですね。
僕はそこはすごく大事だなあと思っているんです。
どんな存在、存在論なんですけど、結局、どういった問いを立てるか、というのは、その存在をどう見ているか、ということで。
メカは意識がないから、原因論はできるけど、意識あるものは自分でいろいろ考えていく力を持っていますから。
だから原因じゃなくて、どうであればいいの? とそれを試してみます。
僕の最初に書いた本は『心のメッセージを聴く』なんだけど、心にはなんかメッセージがある、という。
それが、不安のような形でしか出てこないかもしれないけど、しかしそれはメッセージなんですよね。
で、やっぱり、そこを信じているからこそ、たとえば、クライエント中心療法が成り立つんですよね。
それとかゲシュタルトもそうです。
いわゆる人間性心理学が成り立つのは、それは、人はどこかで解決を知っている、と信じているから。
そこは大事なことですね。そこを信じるか信じないかで、やり方がすごく違ってくるかもしれません。
私も質問したくなりました。
〈5〉
お母さんが出てきましたけど、お母さんはご本人が思っているお母さんなんだ、と。それは非常に理解したんです。
ゲシュタルトで言う「エンプティーチェア」を使うのも、結局あれは何をしているのかと初めはわからなかったんですけれど。
あるひとりの人をエンプティーチェア、目の前の椅子に置く、イメージもしていく、どうしてますか、とか、どういう表情をしていますか、とか、どっち向いてますか、とか。
凄くリアルにイメージする。そのイメージ自体が、その人の持っている、その人物に対するイメージなんですよね。
そうすると、結局は現実のその人ではなくて、自分の心の中にあるその人と対話をしてるんだ、ということに1年ぐらい経ってから気づいたんですけれど。
自己内対話なんだ、というかエンプティーチェアとして置く人物は(自分の一部、だから)。
それでゲシュタルトって「統合」(という意味)なんですが、それ(=分裂した自己)を統合していくのか、というふうに、私は理解しているんですが。
先ほどの、ちっちゃい子どもの姿のご本人が出てくる、だけどそれはそういう姿をしているけれど、過去のその人ではなくて、今のその人がその姿を取ってるんだ、と。
そうするとですね、私、ゲシュタルトのワークとそこ、何か違う気がして…
そこ違うね、多分。
ゲシュタルトは固着した過去の時間を、それを溶かす、というか、流す、固着自体が生き物として、生物として異常事態な訳でよろしくない、流れていかないということは。
そこを流していく、ことをしていくんですが、そのことと、今さっき、先生が仰った、過去じゃない、今なんだ、と…
そこはね、結局、私の方が「今、ここ」を大事にしているんじゃないかと思います。
ゲシュタルトの、たとえば、「未完了」って言うでしょ? というのは人の体験は過去によって出来てる、と思ってるんですよ、彼らは。
彼ら、というのは?
ゲシュタルティストは。
ああ、はい。
だから、現在出てきたものは、過去の未完了が今現れていると思う。
はい。そういうふうに聞いています。
でも私は、今現れているものは、今だと思っているわけ、ですね。
過去の未完了は存在するかどうかわかんないですよ、そんなものね。
だからたとえば、さっきのセッションでいえば、フォーカサーは、今の自分の気持ちは、小学生のようだ、と言ったわけ。
「スカートの中に顔を埋めて体育座りしてる小学生のように私は感じています」って言った。
今の描写なわけ。
で、実際に小学生の自分の過去があるのかないのか、そんなもん検証のしようがない。
だからそれがあるというふうには思わない方がいい。
それは何々のようだ、といったメタファーというふうに、僕は扱っている。
だからそれは「アンフィニッシュドワーク」「アンフィニッシュドビジネス」ではなくて、今の気持ちを表している、というところです。
そういうところで違う。
そうすると、到着点がどう違ってくるのか、到着点がどこなのか、今、私、混乱しています。
僕はだからゲシュタルト・セラピストと一緒にコラボワークやって、そういうところに出てくると、非常に面白いなっていつも思ってます。
ゲシュタルト・セラピストだったら、その時の自分は何歳の頃だった?とか、その時何が起こってましたか?とか訊くのよ。
僕は横で、そんなこと訊かんでええのになあって思ってるわけ。
それで交代したら僕は全然(そういうことを)聞かないの。
セッションの進み方がえらく違うから、僕なりに楽しんでるし、コラボに参加した人はそういうところ楽しめるかなあ、と思います。
過去を掘り起こすと、本当にそれが事実なのかどうか、検証のしようがない、問題。
ゲシュタルトの、過去に戻っていくのは、先ほどフォーカサーが、「いや、それは過去にそういったいじめがあったわけじゃなく、今の私の気持ちでした」と仰いましたが、これが過去を一生懸命探っていくと、捏造とは言わなくてももしかすると、作られた過去も出てくる、のでしょうか?
だから、フロイトが非常に躓いたのは、性的虐待とかいろいろ言ってた割に、たとえば、フロイトの揚げ足を取ろうと思って(いる人が)いろいろ探してみると、患者さんが言っている場所すら存在しない、とか、だからこれは嘘だということをいうわけですよね。
フロイトの、その性的虐待説みたいなものはインチキだ、みたいなことを言おうとするわけ。
そこでフロイトの凄い偉いところは、(私が)凄くびっくりしたところは、「それらが催眠下で患者が嘘を言うはずがないので、それは嘘じゃない。それが事実でないとしたら、それは患者のファンタジーだ」としたところ、ね。
ここが精神分析の中で凄く大きなイベントなんです。
だから、小さい子どもも、リビドー的欲求、性的欲動がある、みたいなことになってくるわけ。
そこで、事実じゃないからありませんでした、というふうにならないところがフロイトの凄いとこでね。「ファンタジーだろう」って。
でも僕からしたら、ちょっと無理な議論だなって思いますね。
ゲシュタルトの、過去の不幸を追いかけるということは、ある意味、そちらに走る可能性もあるな、とふと思ったんです。
だから、ゲシュタルトの方もやはり「here and now」っていうことはとても大事にしているわけですよ。「今、ここで」って。
だからどこまで徹底的に「今、ここで」を大事にするかっていうところで、やっぱり戻ってくるところは「今、ここで」なので、そこが大事なところかな、と。
ある意味、それが歯止めになる、と。
そうですね。
わかりました。ありがとうございました。
人間は何か凄くそういうような、そういうふうにたとえて言い表す、のがうまいですよね。
それはそういう力を人間は持っているから、最大限使いたいですね。
「小学生のようだ」、それから「母親が見捨ててる、と言っているようだ」とか。
そういう自分の気持ちを、そういうたとえとして、非常に的確に組み表す力を持っている。
ゲシュタルトのエンプティーチェアは、「未完了」な問題が今、ここに現れている、として、過去に遡る、ことをする。
しかし、池見先生は、それは今の自分が「小学生のようだ」という比喩を取っているだけで、それは今の自分の問題なのだ、と過去に原因を求めない、という。
この違いはとてつもなく大きいように私には思える。
子どもの不登校で悩んだときに「原因を探しても意味はない。原因自体、どんどん変わっていく。既に今、自分の不登校が人からどう思われているのか、という人目が気になっている状態をどうするか、にアプローチする必要がある」と言われた田嶌誠一先生の言葉が私の中で響く。
それから。言葉の、比喩の持つ可能性。
現象学の三村先生の「今、私はメタファーに興味があるんですよ。」と言われた言葉も、私の中で響く。
自分にとっての「未知」な自分の状態を、たとえを使って表現する。
既存のイメージになぞらえて表現するしかない、ところに限界はある。
しかし、そのイメージが自分の中で生き生きと動き出すのなら。
自分の制御不能なものとして在るのなら、それはもう、別人格ぐらいの存在感を持つ、と言えるのではないか。
それが、言うならば、池見先生の言われた「他者性」ということではないのか?
それでも。立場の違いが明確になっても、違う立場の人たちを尊重する姿勢を崩されない池見先生の穏やかさに安らぎを感じる。
フロイトの凄さを認めながら、しかし「僕からしたら、ちょっと無理な議論」と看破される。
そのバランス感覚に驚嘆する。
私には、とてもとても大きな意味を持った時間でした。
画像は今朝5時12分に撮った日の出。
昨夜の雨が上がって、空気が澄んだ朝。