月に1回の、櫻井詢晃さんの「ブッダの<呼吸>の瞑想 ゆるゆるお茶会」。
特に何の目的もなく、詢晃さんお手製の菓子をいただき、ゆっくりとお茶を飲んで。
近況報告をし、それから。おもむろに『ブッダの<呼吸>の瞑想』を開く。
この日のお茶会のお菓子は。
丸ごとのいちじくを煮たもの。ほろほろと口の中で溶け、本当に美味しい。
…私は詢晃さんの作るお菓子を食べに来ているのだ、と心底思う。
だって。身体の隅々にまで染み渡る美味しさ、なんだもの。
さて、とおもむろに開いた本に中から、読みたい箇所を拾い出す。
なんと! 偶然にも。私も詢晃さんも、「エクササイズ1 日常的な呼吸への気づき」を見ていて。
私が読み始める。
「息を吸いながら、息を吸っていることを知る。息を吐きながら、息を吐いていることを知る」
一 長く息を吸いながら、長く息を吸っていることを知る。長く息を吐きながら、長く息を吐いていることを知る。
二 短く息を吸いながら、短く息を吸っていることを知る。短く息を吐きながら、短く息を吐いていることを知る。(p.89)
何度も読んだことのある箇所。
読みながら、少し長めの息を意識したり、少し短めの息を意識したり、していた。
なのに!
はじめのうち呼吸は短いのがふつうですが、呼吸するうちゆっくりと深くなっていきます。
このふたつの方法を通して、自分の息が長いか短いかを確認してください。
意図的に呼吸を長くする操作はしません。
ここでは『長く息を吸おう」ではなく、正確には「息を吸いながら、長く(短く)息を吸っていることを知る」と言うべきです。(p.99)
とあって。
自分の息の状態に「気づく」だけでよかった、とは!
持続的に意識を呼吸に向けていると、呼吸の性質がわかってきます。
「息を吸っていることを知る。そして短い息だと知る。」
息が短ければ、短いままでいいのです。
それを長くすることは重要ではありません。
これを「あるがままの受容」と呼びます。
苦痛についても同様です。
まずすべきなのはそれを認めること。
呼吸がせわしないときにはせわしないと認めてください。
ゆっくりならゆっくりと認める。
不規則なら不規則、規則的なら規則的と認めましょう。
瞑想に入ったばかりのとき呼吸はぎくしゃくしているものですが、数分たてばそれはなめらかになり、自然に安らぎと喜びがやってきます。(p.100)
「あるがままの受容」。そう、言葉ではそう言うけど。わかってなかったなあと思う。
そのままでいいんだ。息が長くとも短くとも。不規則であろうがなかろうが。
そのうち。落ち着いてくる。ただ、それを待つだけでいい。
ときには思考や不安が止まらなくなるときもあります。
カセットテープが心のなかで回り続けているような状態です。
長時間テレビを切らないでおくと熱くなりますが、人間の頭も思考によって加熱します。
考えが止まらなければ眠れません。
たとえ入眠剤を飲んでも、夢の中で走り、考え、心配し続けるのです。
しかし私たちには、気づきの呼吸という薬があります。
五分間呼吸に気づきを向けて体を休ませれば、そのあいだに思考は止まります。
「吸っている」「吐いている」という言葉は思考や概念ではなく、呼吸の気づきへの導き手です。
年中考えてばかりいると、私たちの存在の質は貧しくなります。
思考が止まれば存在の質は豊かになり、より深い安らぎ、くつろぎ、休息が訪れるでしょう。(p.101)
「年中考えてばかりいると、私たちの存在の質は貧しくなります。」という言葉が心に響く。
…「存在の質」!
なるほど、と思う。
私たちは、どういう存在で居たいのか。それが問われているんだ、と思う。
常に追い立てられているのではなく。ゆったりと。おおらかに。
そんなふうなありようでいる私でありたい、と願う。
画像は、詢晃さんお手製のいちじくの煮菓子。