今日、午後からの時間が空いたので。
あ、これはチャンス!とばかりに教え子の整体院に駆け込んで。
どういった話の流れからか、善意の、だけど、どうしようもなく「噛み合わない」人の話になって。
たとえば。何か身体機能に障害を持っている人がいたとして。
周囲は「気にすることない」というような声かけをしたとしても。
本人は自分の障害を「欠損」と感じて、ひたすらそれを何とかしようとする、だろう。
それは言うならば、マイナスを0にする、といった、切ない願いの元に。
そんなことは考えなくていいんだ、と周囲がいくら言っても、耳に届かないだろう。。
そんな中、障害を持っているだけで「◯◯ちゃんは、頑張っているんだ」とみんなの前で言う担任の先生がいて。
いやあ、もう。
台無し、だよね。
無理して、背伸びして、何とか追いつこう、として、そして、そのこと自体を気づかれまい、としているのに。
いや、そう。
悪気はないのよ。
善意で、良かれと思って、本人の努力をみんなに知ってもらいたい、と思って、それを知らせようとした、だけで。
…そんな、本人の気持ちを踏みにじる、つもりなど、全くなくて。
だけど、やっていることは、この上なく踏みにじっていて。
「残念な人」って言い方を彼はしたけど。
…そうね。残念、なんだよね。
悪意はなくても、この上なく傷つけている、ことが。
そして、この上なく傷つけていること自体をわかってない、ことが。
…そして、その「わからなさ」は、今後も解消されそうにない、ことが。
この先まで延々と続く「無理解」が、解消される目処も立たない不毛さが、心を萎えさせる。
あーあ。どうにもならない、や。。
でも、この手の「無理解」はそれこそどこにでもゴロゴロ転がっている、気がする。
どうにも「理解されない」ことを認識したとき、説明の言葉を失う。
…言えば言うほど、言葉を重ねるほど、疲労感が募る、よね。。
そんな時には呪文のように呟くしかない。「沈黙は金」と。
そうして。顔には、とびっきりの「笑顔」を貼りつけて、ひとまずその場から離れるしかない。
それにしても。
善意の無知って、罪だよね。
善意ゆえに、持っていく場所がない。
「善意」の罪は「悪意」より罪である、ことを真剣に考えた方がいいように私は思う。
画像は昨年11月3日に撮ったアンジーのシルエット。
シルエットだけの方が、余計なものが削ぎ落とされて、惑わされなくていい、のかもしれない。カウンセリングルーム 沙羅Sara
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