今回もご参加されていた、S先生が加わり、「心理療法はクライエントを変化させてナンボ、というところがある。カール・ロジャースの『無条件の肯定的関与』ではないが、『ラディカル・アクセプタンス』、つまり、価値判断をせずに、という関わりが大事なのではないか」と。
応じた東先生も「技法より、セラピストの在り方が大事」と。
東先生は、システムズ・アプローチ的に言えば、「自己主張しないでやってきた歴史」も、「自己主張したい自分」も、どっちもありで、この葛藤を扱うのだ、と。
「自己主張しなければ」という膠着(こうちゃく)を作るから、(「自己主張できない私」という)「失敗」が起きるのだ、と。
「自己主張できない」を、一応「問題」ということにして、「自己主張できない私」を外在化すればいいのではないか、と。
「自己主張することを良しとする価値観」がクライエントの頭の中心にあるから、それと「自己主張しなかったことで、サバイバルしてきた」ストーリーとを対峙させれば、と。
「自己主張できない私」を外在化?
これは、まさしくゲシュタルト療法の「エンプティーチェア」じゃないの!
ただ、ゲシュタルト療法では、「自己主張できない現在の自分」ではなく、「自己主張したい」私を外在化させ、エンプティーチェアとして、置く。
そして、「自己主張したい」私と「自己主張しない」私の対話を深め、統合(ゲシュタルト)する。
東先生の、システムズ・アプローチ的な関わりは、S先生の言われる「ラディカル・アクセプタンス」を明確にしたもののように私には思えました。
そして、それは、まさしくゲシュタルト療法のファシリテーターの在り方そのもので。
「ファシリは、クライエントをどうにかしようと思わない!」「クライエントについていくように!」「クライエントと共にいるように!」
これらは、ゲシュタルト療法のファシリテーターのスーパーバイズを受けたときに、発せられた言葉。
「今、ここ」に居続けるように、と。
クライエントを何とかしようとすることは、その人の、自分でなんとかできる力を信じていないことと同じ。
それは、クライエントの力を奪うことになる。
それは、ゲシュタルト療法が取り入れた「実存主義哲学」の「人は自分で自分の人生の選択をし、その責任を取る自由がある」に反する。
ゲシュタルト療法は、心理療法では唯一の、哲学を取り入れた療法だと説明を受けました。
つまりは、人間とは何か、生きるとは何か、を問う心理療法なのだ、と。
多分…この事例研究の場合も、セラピスト側の「クライエントをどう見るか」「人間をどう見るか」というクライエント観、人間観が関わってくるように思います。
クライエントにどのような関わりをするかは、「どう見るか」によって、やっていいこととと悪いことが鮮明になるので。
今回のセミナーは、ゲシュタルト療法は、その名の通り「ゲシュタルト(=自己内統合)」を目指しているので、既に「統合的心理療法」の部類なんだ!という発見が、私にはありました。
まあ、「統合的心理療法」とは、セラピスト側の技法的な「統合」を目指したものなのでしょうけれど。
セラピスト側の在り方の「統合」を追究する道もあるのではないか、と。
画像は、今年の10月1日に生駒山中腹の鬼取町で撮ったもの。
東先生の真摯に問題を追究されるされるお姿が素敵です。
私も、こんな風に赤い実(?)を赤いままに差しだそうと思います。