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沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
日々の暮らしの中で、ちょっと気づいたこと、ほっと一息つけるようなことがらをコラムとしてまとめました。
あなたの「お役立ち」になるかどうか、心許ないですが、興味を持った「カテゴリー」から読んでみてくださいね。

カテゴリーごとに選べます。
選択
幸せをおすそ分け
2017/05/12
錦帯橋での再会  
ピーターラビット展のあと、今度は山口・錦帯橋目指して、移動しました。CDA資格を一緒に目指して勉強した友人がそこに住んでいるので。CDA(キャリア・ディベロップメント・アドバイザー)、いわゆる「キャリアカウンセラー」資格は二人とも無事1回で合格しました。…もう5年近く前のこと。私が勤めていた広島県廿日市西高校に、「キャリアカウンセラー」として週1回やってきた彼女と、就職担当だった私は、一緒に仕事をすることになって知り合ったのでした。

「ねえ、一緒にCDAを目指さない?」と持ちかけたことを覚えています。確か…、ペアで受講すると講座受講料がちょっと安かったような。それで誘ったのでした。

そのあと、CDA資格を持っていたら、国家資格の「キャリアコンサルタント 2級」資格が、「学科免除」となるのが、確か、平成25年度までで、CDA資格を取ってから1年間しかなくて、それでもとりあえずチャレンジするためのあれこれ…「免除講習」なるものを大阪まで受けに行くのとか、面接練習とか、を一緒にしました。

残念ながら、「キャリアコンサルタント2級」資格は取れなかったのですが、その時以来、お互い忙しくて会ってないような気がします。…となると、4年ぶり、でしょうか。

相変わらず背が高くて(いや、背は変化しないか…)、涼やかな声で、ほんわかした笑顔が素敵な彼女でした。キャリア関係のお仕事以外に「行政書士」のお仕事も始めたそうな。え? 行政書士持ってたの⁈ と驚く私に、「うん…もっと若い時に、取ったものよ」って。(「もっと若い時」という言い方が、いいなと。「若い時」ではなくて。うふふ。)

遅いランチを取った後、錦帯橋を渡りました。久しぶりの錦帯橋でした。

この場所は亡くなったお父さまの故郷で、彼女自身は広島生まれの広島育ちだそうな。自分の生まれ育った場所ではないところで今後を生きて行く、というのは私も少し似たところがあります。でも、彼女の方が県も違うし、大変。友人もいなくて辛かった…と言いました。でも、偉いね。ここで根を生やして生きて行くんだね。親の介護で東京を引き払って、ここに移り住んで、もう11年なのね。

彼女の密かな「チャレンジ」も聞かせてもらって、あっという間に2時間半が経ちました。

ありがとう。時間取ってくれて。また、会おうね。また、どんな仕事を作ったのか、聞かせてね。私も自分の仕事を作って行くから。

絵本の世界
2017/05/11
ビアトリクス・ポター生誕150周年  ピーターラビット展  
子どもの下宿に泊まった日、「明日は何時に出るの?」と聞いたら、「1時間目からだから8時過ぎ」と。
子どもの1限目の授業にくっついて行って、一緒に授業を受けようかと思ったのですが(生来の好奇心がむくむくと湧き上がって、経済学の授業ってどんなかなぁと思って)、子どもが嫌そうな顔をしたので、おとなしくやめることにしました。

それで、アストラムラインの駅で別れたのですが、さて、どうしたものかと思っていたら、吊り広告で「ピーターラビット展」が案内されていて、行くことにしました。

ピーターラビットの作者は女性で、最後は広大な土地を環境保護のためのナショナル・トラストに寄付した…ことぐらいしか、知りませんでした。以下は、会場で購入した図録の解説からの抜粋です。


ピーターラビットのお話は、作者ビアトリクスの最後の家庭教師だったアニーの、病気の息子に宛てた一枚の絵手紙から始まりました。「ノエル君へ あなたに、なんて書いたら良いのか分からないので、4匹の小うさぎの話をしましょう」1893年、ビアトリクス27歳の頃でした。

手紙に書かれた物語を他の子どもたちのためにも出版すべきだと考えたのは、ノエルたち8人の母アニーで、大切に保管していた手紙をビアトリクスに送り返しました。

絵本より先に彼女の描いたクリスマスカードが販売されていた(1890年)のですが、絵本はなかなか出版を引き受けてもらえず、最初は自費出版で数百冊を作り、1902年にようやくフレデリック・ウォーン社から『ピーターラビットのおはなし』が出版されました。

母ヘレンはビアトリクスが40歳になるまで、独裁的できわめて支配的であった上に、子どもが社会的に身分の低い人と結婚することを許さない人だったようです。
ビアトリクスの母に対する服従心は強いものだったようですが、そこから逃れることができたのは、イマジネーションの世界と暗号日記の中においてだけでした。(彼女が15歳から31歳まで書いた暗号日記が初めて解読されたのが1958年)

フレデリック・ウォーン社を訪問しているうちに、ビアトリクスは編集者のノーマン・ウォーンと知り合います。やがて1905年に、ノーマンは当時39歳のビアトリクスに手紙で結婚を申し込みます。両親はビアトリクスがこの求婚を受け入れること、そして婚約を公表することを許しませんでした。

1ヶ月後、ノーマンは悲劇的なことに急性白血病で亡くなってしまいます。ビアトリクスは自分の出版の収入と叔母からのわずかな相続金で、湖水地方にあるヒルトップ農場を購入しました。そこは子どもの頃、夏に過ごしていた場所の近くでした。

その後、農場での生活に関心を持つようになったビアトリクスは、周辺の農場も買い取っていきます。その時に知り合った弁護士ウイリアム・ヒーリスから1912年に求婚され、両親に隠し続けますが、1913年に47歳で結婚します。(ウイリアムは43歳)

美しい湖水地方は、産業革命を拒んできた場所であり、ワーズワース他「湖の詩人たち」と呼ばれていた英国詩人たちのグループがそこに住んでいました。後に、偉大な美術評論家で、今日で言うところの環境保護、持続可能性、手工業を推奨した社会工学者でもあったジョン・ラスキンが1871年に移り住んできました。彼はオクタヴィア・ヒルとともに不動産に投資し、貧しい人々に貸し出して、彼らの自立と自己改革を求めました。(ヒルは1895年にナショナル・トラスト設立者のひとり)

ビアトリクスはナショナル・トラストに参加し、1943年に亡くなった時には、彼女が所有する湖水地方の土地は、彼女の写真と水彩画とともにナショナル・トラストに遺贈されました。


ビアトリクス・ポターは自分のことをフェミニストだとは思っていなかった(女性の権利運動、婦人参政権者には反対だった)とありますが、でもその生き方は、女性が自分で働いて賃金を手にして、親の価値観とは異なる自分の価値観を貫いて…と、女性の自立を実現する人生だったと思います。
いろいろと制約があり、大変な人生であるにもかかわらず、一歩一歩、自分の歩みを進めているところが凄いなあと思います。47歳で結婚、というのも、いくつになっても、新しいことにチャレンジできる人だったのですね。

思わぬ「拾い物」をしたようで、いい時間を過ごしました。




美術館敷地内のカフェ。

展示館までの道に、いたるところに動物たちが!



子どもとの時間
2017/05/10
子どもとの時間(5)大学4年生 ②  
広島駅に午後5時前に着いて、そのまま在来線で横川駅に行きました。子どもとの待ち合わせ場所をそこにしていたので。ラインで少し遅れるという連絡が入り、…そういえば、リアルタイムで連絡が取れるようになって、若い人は待ち合わせ時間もあまり気にしなくなったという記事を読んだなあ…と思いつつ、私はやっぱりアナログだから、約束の時間前に来てないと不安だなあと。

無事会えて、予約していたイタリアンのお店に。

子どもは少し元気なさそうだった。…単位不足を補うための資格検定試験は今月の21日だそうな。スパークリングワインで乾杯しようと思っていたのに、お酒はやめているとかで、「まあ、今日ぐらい…」と勧めても頑なに「いや、いい」と。…願掛けでもしてるのかしら?

ママは構わず、スパークリングワインと白ワインを空けました。

「3686gで、20時間頑張った後に帝王切開になって、大変だったよ」と言っても話に乗って来ず。…いやそういうことを言いたいんじゃなくて、…生まれて来てくれてありがとう、と言いたかったんだよ。

今朝は7時に起きて、8時過ぎに下宿を出ると言ってた。1時間目の授業があるそうで。私も同じ時間に出るつもりだけど、その前に、…なんて唐突に変だよね。…まだ時間はある。もう少し考えよう。

幸せをおすそ分け
2017/05/09
奈良公園・飛火野(とびひの)  
奈良公園の一角に「飛火野」と呼ばれるところがあります。どこからどこまでをそう呼ぶのか定かではないのですが、私が知らないだけで、定まっているのかもしれません。(どなたか、ご存知だったらお教えください)
東大寺から春日大社の鳥居、高畑へと抜けるバス通りに沿っていて、なだらかな傾斜があるところなんですが、大学生の私の「お昼寝」の場所だったりしました。

お昼を食べて、あるいはお昼をそこで食べて、午後すぐの授業がない場合、そのままぼんやりとそこで過ごしたりしていました。もちろん、夏の暑いさなかは日陰を探すのが大変で、それに鹿フンが臭うので、ダメでしたけど。

昨日は朝8時にミリアムと別れて、そのまま家には帰らずに、鹿にあって来ようと、トコトコ飛火野までやってきました。朝の光は柔らかく、空は青く、鹿は一頭もいなかったのですが、丘のようになっているところを越えていったら、大きな木の下にたくさんいました!

「おはよ」と挨拶して手招きしたら、若い子は近づいてきたりしました。手をさしのべると、頭を撫でさせてくれる子もいました。(でも、エサを持ってないと知ると、すぐ離れて行きました)




昨年春に早期退職を決めるまで1年間悩んだのですが、最終的に老後をどこで過ごすかを考えた時に、やっぱり私は広島にいる自分をイメージできなかった、ことがあります。
広島では最後の10年ぐらいは海近くで暮らしたので、ほとんど毎日見る海はホント飽きなかった。
奈良には海はなかったので、海は憧れでもありました。

けれど私は、あのだだっ広い、何の変哲もない飛火野が恋しかったりしたのです。…ふるさとって、そういうものかもしれませんね。…今住んでいる生駒は、やっぱり「ふるさと」ではない。私の「ふるさと」は、基本「平地」なのです。

30分足らず、でしたけど、いい朝の時間でした。

幸せをおすそ分け
2017/05/08
お誕生日会  
友人のミリアムと私は誕生日が近いので、昨年に私が奈良に帰ってから、二人で「お誕生日会」をすることにしています。…そもそもは、ミリアムと亡くなった夫君、節夫さんの誕生日が同じ日なので、お誕生日は淋しいだろうなと思ったのがきっかけ。今年は2回目。今年は、ミリアムのお店が終わった後、食事に出かけることにしました。奈良に住む、高校の同級生に「いいお店、教えて」と頼んだら、奈良ホテルから東寄りのところにある「梛(なぎ)の木」という、奈良産の食材にこだわったレストランを紹介してくれました。

「梛」なんて、読めませんよね。でも私は「なぎ」と聞いて、その昔、…20代の頃、梛の苗木を買ったことを思い出しました。記憶が定かでないのですが…確か、春日大社か…のご神木とされているのが、数少なくなって、絶滅しないように増やしましょう、というのだったような…。(でもその苗木は、どうなったのか…定かでありません…)

ネットで調べると「梛(ナギ)はマキ科マキ属に含まれる常緑高木。雌雄異株。日本の本州南岸、四国九州、沖縄、台湾、中国の海南島などの温暖な地方に分布します。世界に約100種あるマキ科マキ属のなかで最も有名で、最も美しいといわれる木が梛です。針葉樹でありながら広葉樹のような幅の広い葉を持つユニークな木なので独立してマキ科ナギ属とされることもあります。」とありました。

そのお店が、なんとミリアムの長女の友人の妹さん夫婦がやっていたのです。…世間は狭いですねえ…。ちょうど、長女から「お店を始めたようよ」という連絡が来ていて、お店を探そうとしたけど、ちょっとわからなかった…というところだったみたいで。聞いたら、開店してまだ1ヶ月だそうです。

コース料理の「お魚」を選んで、「お肉」一品を外してもらったのですが、それでもお腹いっぱいになりました。デザートのお皿には、「おたんじょうび おめでとうございます」の文字が。

ちょっぴり嬉しい、6歳と7歳でした。(10の位は置いといて。)




お店から戻って、私が持って来た日本酒を開けました。…1年以上前に、広島の友人から頂いたもの。なかなか飲む機会なくて、「1年も置いといて、大丈夫?」と心配しながら、でしたが、大丈夫でした。辛口のいいお酒。そのまま、「みりあむ」でお泊まりとなりました。

画像は、今日のために用意した小ぶりのタンブラー。猫とお月さんと、それからスワロフスキーが星となって輝いています。

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カウンセリングルーム 沙羅Sara

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