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沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
日々の暮らしの中で、ちょっと気づいたこと、ほっと一息つけるようなことがらをコラムとしてまとめました。
あなたの「お役立ち」になるかどうか、心許ないですが、興味を持った「カテゴリー」から読んでみてくださいね。

カテゴリーごとに選べます。
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ゲシュタルト療法
2017/04/16
ゲシュタルト療法トレーニングコース最終回(2)  
GNK主催、「ゲシュタルト療法トレーニングコース」合宿の2日目、朝5時半から本堂での朝のお勤めに参加し、引き続いて本堂の「戒壇巡り」をしました。これは、お寺によっては「胎蔵界巡り」と呼ばれているものです。
「胎蔵界」とは「密教で説く二つの世界のひとつで、金剛界に対して、大日如来の理性の面をいう。仏の菩提(ぼだい)心が一切を包み育成することを、母胎にたとえたもの。」(デジタル大辞泉)とあります。(ちなみに「金剛界」とは「密教で、大日如来の、すべての煩悩(ぼんのう)を打ち破る強固な力を持つ智徳の面を表した部門。」(デジタル大辞泉)だということです。)

本堂の地下に、暗闇の中ぐるりと一周回れるようになっていて、塗香(ずこう)を手のひらに塗って、右手で壁面を触りながらゆっくりと一周しました。…私は、胎内に一旦戻り、産道を通って、また、生まれ出たきた感じを持ちました。

その後、千手院に戻り、ここでは護摩焚きをしながらの朝のお勤めがありました。般若心経その他を一緒に唱和しながら、最後に「毘沙門天護摩祈願」をひとりひとり受けました。


6時45分からの朝食の後、午前のワークは9時からでした。CFO(クライエント・ファシリテーター・オブザーバー)体験を始めるにあたって、ファシリテーターの百武さんから3点、説明がありました。

<CFO体験での注意事項>
1  ストーリーに乗っからない
   「ストーリー」とは本人の説明。それは本人が「解釈」していることで、そのストーリーに乗っかってしまうと、本人の「自分の中のサイクル」が回り始めるだけで、そこから抜け出せない。

2  「気づきの3つの領域」に問いかける
   「 3つの領域」とは、「外部領域(現実の世界)」「中間領域(思考レベル)」「内部領域(からだ)」。思考をストップさせるのは、思考が悪いわけではなく、偏っているからよくないだけ。感覚・感情に目を向けさせることで全体像に近づこうとする。

3  何かを変えようとする必要はない
    3つの領域に目を向ける「問いかけ」をすることが必要。ゲシュタルトでは「十分に経験する」ことをする。解釈しないで、(痛みなど)治そうとしないで、今感じている感情や痛みを十分に味わう。「十分に経験する」ことが「気づく」ための大事な条件。

9時半から始まった朝のCFO体験では、2人ずつペアになり、25分ずつファシリテーター役とクライエント役になりました。「エンプティー・チェア」を使う方法で行い、テーマは「自分を育ててくれた人」でした。「エンプティー・チェア」技法を用いるのあたっての注意事項は次の3点。

<エンプティー・チェア技法>
1  人物像がファシリテーターに明確になった時に、エンプティー・チェアを置く。
2  その人がいるように、少し時間を取る。
3  1つの話題、1つのできごとに絞る。

なお、ワークのための「気づきの4つの問いかけ」は次の4点。

<気づきの4つの問いかけ>
1  今どんなことに気づいていますか?
2  身体の中で、何が起きていますか?
3  あなたのしたいことは何ですか?
4  気づくことをどんな方法で止めていますか?


さて、午前の部で私が学んだことは、「どこでワークを終えるべきか」ということでした。
私のクライエント役となった人が「自分を育ててくれた人」として母を挙げたのですが、話し始めると、母との葛藤が出てくる。
百武さんに「ファシリテーターとして、このまま続けるか、やめるか、どちらを選択するか」と問われ、「テーマとは離れるけれど、クライエントにとって大事なことのように思えるから、続けます。」と答えたのですが、その判断は誤りでした。私は「情」の部分で動いてしまったように思います。けれど百武さんが指摘したのは「自分を育ててくれた人として母を出したのに、母との葛藤が焦点化されている。これが、1つの課題となっている。(クライエントにとって)どういうことが自分を育ててくれたかが明確になると、問題はクリアできる。でも、今のままだとループになって(葛藤が)強化されるから、やめたほうがいい」ということでした。
その「やめ方」としては、「ファシリテーターが、今起こっていることをクライエントに説明してグランディングすること」と言われました。そうして「断つ」のだと。


午後のワークは、1時半過ぎからの「滝行」の後、3時から始まりました。今度のCFO体験は「エンプティー・チェアを使わない方法」で行うものでした。エンプティー・チェアを使わないで、ファシリテーターに対して「私がその人だと思って、言いたいことを言ってください」という声掛けをして、クライエントが内に閉じ込めていたものを外に表現するように働きかけるのだということでした。テーマは「自分の苦手な人」。

「いつ、どこで、何があったのですか?」という問いかけで「外部領域の気づき」を促し、「そういうこと、そういう人に対して、何を感じていますか?」「どんな気持ちでいますか?」「どういう風に伝えたいですか?」という問いかけで「内部領域の気づき」を促すのだということでした。

私が苦手な人として取り上げたのは、母でした。母が絶対的に苦手、というわけではないのだけれど、時折とっても嫌になってしまうということで。「いつどこで、何がありましたか?」に対して、「今回の合宿に参加するために家を出る時、ちょうど宅配が来て、なんだろう?と思って中を確かめて、その後、家を出る時間が迫って来たので、宅配のダンボールを折り畳んでゴミ置き場に片付けないで、玄関の靴箱の上に置いておいたところ、母が『また、最後まで片付けないで置いてる!最後、もうひと手間片付けてくれたら、私の手も煩わされないで済むのに。」と言ったことに私は腹を立てて、『何で、それを今言うの? 私は今、出かけようとしているところなのよ!』と言ってしまった。」という話をしました。

CFO体験で私は「過去に母が自分の気持ちを優先するばかりで、私の気持ちにお構いなしに言ってくることが多くて、それも自分の価値観、感覚を絶対的なものとして押し付けてくることに、イラっとしてしまう。子どもの頃の私は何も言えなくて。大人の私は言えるようになったのはいいんだけど、過去の『未完了な問題』が蓄積されているから過剰反応してしまうのかなあ…」と思ったところで、タイムリミットとなりました。

このワークについて、ファシリテーター役の人が、「(クライエントに)感情を出させた後、どう関わっていいのかわからなくなって…」というシェアをしたので、それは他の人も自分のファシリテートに感じていたことだったので、みんなの前で再現することになりました。

母に片付けるように言われた私が感じた感覚、胸の方から喉元に湧き上がってくる「グワッとした」感覚、そして「またかい!」という言葉、それをもっと感じるようにと百武さんに言われました。何度か右手で胸から喉元に何かが突き上げてくる動作をしながら、その時の感情を思い出していると、突然、「ギャー」か何かわからない声とともに右手が何かを襲うような、仕草になりました。即座に百武さんに「何かに襲いかかっているようだね」と言われ、その右手で、私は母を捉えようとしていたんだと思いました。その瞬間、私の口から出た言葉は「私は母をまだ許してないんだ…」でした。

『トレーニングテキスト』には「気づきのサイクル(経験のサイクル)」として「0」から始まり、次のような流れでサイクルが示されています。

<人が水を飲みたくなるプロセス>
Sensation(感覚)→Awareness(気づき)〈図形成〉→Mobilization(行動に移そうとする)→Action(取りに行く)→Contact(水を取る)〈現実にあるもの、人〉→Assimilation(水を飲む)〈統合、消化〉→Withdrawal(引きこもり)〈うるおう〉→ 0

百武さんは、このサイクルの良さは「どこで止まったかで、問題が説明できる」ということだと言われました。私の場合は、「Contact」の部分が問題で、「片付けたくないのに、片付けるように介入される」ことにイラっときているのだとわかりました。つまり、私が考えたように「過去の未完了なことが問題」なのではなく、「今ここで起こっている母の侵入」が問題だったのです。「過去の未完了なことが問題」と思ったのは私の中間領域の「解釈」に過ぎなかった。…これには本当にびっくりしました。自分の感情を味わい続けていると、自ずと答えが出るのですね。私は母の、私に対する「侵入」に対して、怒りを感じていたわけです。なぜ、私のペースでなく母のペースで「片付け」のタイミングを決められなければならないのか、と。

百武さんから「ここでワークを終えておきましょう」と言われました。「私は母を許していない」という気づきを得たわけだから、それから先に進むのではなくて、それを十分味わうように、とのことでした。

私は母はこういう人だから、と諦めているつもりだったのです。そういう母を認めて受け入れようとしているつもりだったのです。しかし、そうではありませんでした。「なぜ、あなたは自分の感情ばかりを優先して、私の気持ちに気づこうとしないのか?」それが私の正直な気持ちでした。

いやはや、ゲシュタルトは、まだまだ奥が深いですねえ。CFO体験で初めて見えてくるものもあります。いつぞや平松みどり先生がおっしゃった、「よくもまあ、ゲシュタルトというヤクザな道に。もう、ちょっとやそっとで足を洗えませんわよ。」が頭の中で響き渡ります。

画像は、今朝も昨日に引き続き、5時半の本堂でのお勤めに参加する前に撮った日の出。ちょっと雲がかかりました。

 <追記>
エンプティー・チェアを使わない方法で、ファシリテーターに向けて「怒り」を放出させるためには、ファシリテーター自身が自分の問題を解決していないと「怒り」に対して対処できない。ということは、エンプティー・チェアを使わない方法はファシリテーターができるようになっているかどうかの指標になるのだろうか、ということをちょっと考えました。百武さんに質問し忘れたので、次の折に確認しようと思っています。




ゲシュタルト療法
2017/04/15
ゲシュタルト療法トレーニングコース最終回(1)  
昨年4月から受け始めた、GNK主催の「ゲシュタルト療法トレーニングコース」もいよいよ最終回を迎えました。最終回は二泊三日の合宿で、昨日午後1時に「現地集合」だったのですが、「現地」はなんと信貴山千手院の宿坊です。

信貴山は「張り子の虎」で有名で、何度か訪れたことはありましたけど、宿坊は、初めてでした。山の斜面を利用して建てられているのか、玄関から入って階段を降りたところの1階のお部屋を4室用意していただきました。部屋の外に廊下があり、大きな中前栽がしつらえてありました。お庭に面してはガラス戸になっているのですが、そのガラスときたら、昔懐かし「ものが歪んで見える」硝子でした…!(私の子どもの頃は、こんなガラスだった…)

さて、初日は、まず理論の整理から。「トレーニング・テキスト」をおさらいする形で、順番に振り返りをしていきました。テキストから抜き出す形で整理します。

ゲシュタルト療法とは
精神分析医フリデリック・S・パールズとゲシュタルト心理学者であった、ローラ・パールズ、そしてポール・グッドマンによって創られた「今、ここ」での気づきを重視する「実践的な心理療法」。
ゲシュタルト療法の創始者であるF.S.パールズが影響を受けたのはフロイトの精神分析、ゲシュタルト心理学、実存主義、現象学と東洋の禅。

ファシリテーター百武正嗣さんの説明で、「パールズは日本にも来て禅を学んだけど、日本の禅のシステムは、『禅坊主』を作り出すシステムで、それは、西洋の『精神分析医になるシステム』と非常によく似ている。」「一生かけて、悟りが開けるかどうかわからないなんて、システムとして非合理的。だから『悟り』でなくて『ミニサトリ』でいいとパールズは考えた」という言葉が、印象に残りました。あと、「身体への問いかけ」の理論的枠組みを作るのに影響を受けものとしてウィルヘルム・ライヒの「筋肉の鎧」、「センサリーアウェアネス」と名付けられる前の、ジュディスの先生であるシャーロットの身体へのアプローチ、フェルデン・クライスなど。

身体中心型療法〜ウィルヘルム・ライヒ〜
フロイトがウィーンに1922年、精神分析診療所を設立した時に、臨床助手の第1号となった。後に彼は多くの分析医の指導にあたるとともに彼らの個人分析も行なった。フリッツ・パールズもその1人でありライヒの身体中心型の心理療法の影響を受けた。

ライヒの心理学への貢献は次の3点である。
1)精神と身体の調和を強調したこと。
2)心理療法に身体のを含めたこと。
3)「性格の鎧」の概念。→のちに、「筋肉の鎧」に改変
ライヒの有名な「性格の鎧」という概念は、人間の慢性的な筋肉の緊張がどのように個人の歴史の中で形成されていくかを示したものである。ライヒは<個人の性格>はそれに対応する<身体的な態度>があるということを強調したのである。人の性格は、筋肉の硬直と関係がある。人は様々な感覚(怒り、快楽、悲しみ、性的感覚)を感じるわけであるが、それを自由に表現することができない時、または表現することが危険を伴う場合には、その感覚や感情を抑圧しようとするために筋肉を緊張(硬直)させてしまう。
その防衛的な<身体的な態度>が、性格の鎧であるとした。ゲシュタルト療法では抑圧していた感情や感覚に気付いた時に、その感情や感覚を表現するか、しないかの選択が可能になるとした。

変化の逆説〜ベイサーの「変化の逆説論」〜
ベイサーは、「変化の逆説論」で、「変化は人が自分自身である時に生じるのであって、自分自身であろうと努めている時には生まれない」と表現している。

今自分が行っている行為や行動を改めて「もっと良い行動」「もっとより人間らしい行動」をしようと目標を置くが、そのような努力は自己否定の上に成り立っているために、決して成功しない。「今の自分」を本当に受け入れた時に変化は自然に起きてくるというのが、「逆説的な変容の理論」。

神経症のメカニズム(コンタクト・バウンドリーの障害)
<Projection(投影)>
投影とは、自分が感じていることを他人の感覚に委ねてしまうこと。私が怒っているのにそれを認めない代わりに「あの人が私を怒っている」と自分の怒りを投影すること。自分の責任を負わないこと。

百武さんの追加説明は、「自分の感覚を分離してしまうこと、と言い換えてもいい。自分がそれに気づかない状態であることを言う。」でした。スピリチュアルが好きな人が陥りやすいとも。

<Introjection(鵜呑み)>
鵜呑みとは親の価値観や社会の価値観を無意識に取り入れてしまった状態。

<Retroflexion(反転行為)>
怒りは生きるためのエネルギーであるのに、表現しないで自己の内面に押し込めてしまうと、この感情は自分を傷つけてしまう。

<Confluence(無境界)>
自己と他者に境界線を持つと言う意味では「融合」と訳すよりは「無境界」の方が適切。生まれてきた赤ん坊は母親と境界線を持っていない。愛情は他者と融合した無境界の状態から始まるのである。子どもが成長するに従って自分の存在と他者の存在の違いを認識し境界線を引くことが自立することである。

<Deflection(話題転換)>
話題の転換や問題をずらしてしまうこと。核心に触れないようにするために「転換」する。

今日は、午前5時半の「お勤め」から一日が始まりました。さて、今日はどんなことになりますやら…。楽しみです。


旅日記
2017/04/14
昭和の香り  
昨日のニュースで、現天皇の退位についての特別法整備について報道されていました。着々と進んでいるようで、あと少しで「平成」も終わるかと思うと、感慨深いものがあります。
人の顔も「昭和顔」と「平成顔」と分けて言われてみたり、「子」の付く名前は「昭和の名前」と言われてみたり、…まあ、スマートなのが「平成」で、ちょっとレトロなのが「昭和」、という感じ。

生徒も、昭和生まれではなく平成生まれの子が高校生になった時には、「昭和と違うんよ」とやたら言われた記憶があります。何が違うのか、よくわかりませんでしたけど、「新しもん好き」の日本人ならではの発想だったかもしれません。でも、もうすぐ「平成と違うんよ」ということになるのですね、これがまた。いったい何が違うのか、よくわからないままに。

さて、一昨日尾道駅前の商店街をぶらぶら歩いていたら、画像のようなレトロな感じのお店がありました。これは「昭和初期」という感じですね。朝9時を過ぎたぐらいの時間だったので、お店は開いていませんでした。そうそう… 商店街のアーケードの下、車は11時までは通っていいそうで、これにもちょっとビックリ!でした。…お店が開くのは、だから11時、でしょうね。つまり尾道時間は11時、なのです、朝の始まりが。

アーケードは車が対抗できるぐらいの広さではありましたが、杏樹(アンジー)が、お店の前でおしっこをひっかけないように真ん中を歩いていたものだから、車が通るたびに端によけないといけなくて、大変でした。

予定外に森友問題を取り上げられると、恫喝して「介護保険法改正法案」の強行採決をするなど、平成の政治も大概なものになってきたと思われますが、刻々と進んでいく事態に目を光らせていないと、どんな時代が来るかわかりませんね。「スマートに」「スピーディーに」が胡散臭く感じらて、レトロなものに郷愁を覚えるのは、とりあえずものごとがどんな風に成り立っていて、どんな風に自分が関われるのかが可視化できていたように思えるからでしょうか?

自分の身の丈に合った生活を創りつつ、どんな風に社会の動きと関われるか、それが今から創ろうとする私の生活スタイルなんだなあと思ったことでした。



旅日記
2017/04/13
尾道の路地  
昨日は、旅行3日目にしてやっと晴れたので、キャリーバッグを尾道駅前のコインロッカーに入れて、千光寺まで歩くことにしました。子どもの頃から「路地」が好きで、家と家の間の細い道を見つけると、ワクワクして入って行ったものでした。もちろん「行き止まり」になっていることも多くて、でも、「な〜んだ」という気持ちより、それを確かめられた喜びの方が大きかった気がします。…だって、行き止まりになっていたら、引き返せばいいだけの話だもの、ね。「どんな風になってるんだろう?」と気がかりを残したら、それこそ「夢に見る」かもしれないんだから!

同様に、「坂道」も大好きで、坂を上ったところには何があるんだろう? と、ワクワクしながら急ぎ足になったものでした。

ということで、尾道の「坂の路地」というのは私にとって二重に嬉しい対象で、ちょっと立ち止まってはカメラを構える、ということを繰り返しながら、寄り道しながらゆっくりと歩いて行きました。

「坂の路地」って楽しいけど、毎日の生活になったらどうだろうか? 見る限り、郵便屋さんとか宅配屋さんとか、ちょっと大変そうだ…。だけど、この風景、この構図は、捨て難いね…毎日見ても飽きない気がする…。などなど、あれやこれや考えながら、こういう場所に住み続ける人たちって、もしかすると、生活に対する価値観そのものが「効率」から遠いのかもしれない…などと考えてしまいました。とってもセンスのいい花の植え付け方や、見せ方の上手な店の看板などを見ていると、「生活を楽しんでいる」空気が漂ってきて、しばし立ち止まって眺めること度々でした。

お店が開くのが11時、だとか「水曜と雨の日は店休日」だとか、まあ、雨だと客足が鈍るってこともあるんだとは思うんだけど、「晴耕雨読」を地でいくような雰囲気が感じられました。でもまあ、そんな「ゆったり感」が、旅人には心地いいかもしれない。

カウンセリングルーム、などという空間にもそんな雰囲気が必要かもしれない、と思ったりします。日常のせわしない空気ではなく、日常離れした、ゆったりとした空間。それには、主(ぬし)である私自身がゆったりしていないといけませんね。私の醸し出す雰囲気が、同じようにせわしなかったら、居心地悪いですものね。…そうそう! だからこんな風に私自身のメンテナンスが必要なのよ…と、これまたつらつら考えながら、「日常的に、心の健康を保つ方法」ということで、いつか講座を開けたらいいなあ、なんて思ったりしました。

旅は、いつもと違う時間と空間に身を置けるので、いろんなアイデアが浮かんできますね。

画像は、尾道の坂の路地。…ちょっと、先に何があるか、見てみたくなるでしょ?



旅日記
2017/04/12
尾道市立美術館にて  
昨日は朝から大雨。9時前に「ハウステンボス駅」を出る電車に乗り込んだのですが、博多でも降っていて、山口、広島…とずっと雨。尾道駅に着いたのは1時を過ぎていて、とりあえず尾道市立美術館に行くことにしました。千光寺公園内にあるので、バスで「ロープウエー入口」まで行き、ロープウエーで山頂まで行きました。

以前から「尾道っていいとこなんやろ? あんたが広島におるときに、行っといたらよかったんやけど。でも坂が多いんやろ? 足腰たたんようになる前に、行っときたいわあ。」と言っていた母の「願い」を叶えるべく、ハウステンボスのあとは、自ずと尾道、だったのです。

「雨やし、何も見えんよ」と渋る母を「でもまあ、美術館は上にあるんだし。」と言ってなだめて、山頂まで連れて行きました。幸いにも小雨になってきて、ちょっとだけ視界も開けて、尾道水道が遠くまで見渡せました。桜は満開でした。

しばし眺めた後、「猫まみれ展」をやっている尾道市立美術館に行きました。チケットの形もちょっと変わっていて、かわいい感じ、でした。…あとで栞にでも使えそうです。母は後期高齢者なので、無料でした。…太っ腹な尾道市。
たくさんの猫の絵やら彫刻やら…よくぞこれだけ集めた!と思えるほどのコレクションでした。絵は歌麿の浮世絵までありました。…猫が描かれている浮世絵。まさしく「猫まみれ」になって、堪能しました。

広島にいるとき、最後に尾道に来たのはいつだっけ…と思い起こして、…確か、5年ぐらい前だったと思い出しました。子どもを全寮制の高校に入れ、久しぶりにひとり暮らしになって、急に尾道の桜が見たくなって、4月初めの週末にひとりでふらりと尾道まで来たのでした。雨までは降ってなかったけど、確かそんなにお天気もよくなくて、曇り空だった気がします。一眼レフカメラを持って出て、「ひとり遊び」をしていました。そのときの美術館は…確か、「アール・ヌーヴォーに影響を与えた浮世絵展」をしていたと思います。アール・ヌーヴォーも浮世絵の好きなので、それも兼ねての花見だったような…。

あ、朝日が差して来ました。今日は、尾道の路地を歩きに行きます。午後に福山から新幹線に乗って帰る予定です。
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